以前、こんな記事を書いた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました♡
家族でも、他人です。
この記事を書いたときは、ざっくりとしか書いていない。
だから、今回の記事は「より深く」切り込んでいこうかなって。
「家族でも、他人です。」
このタイトルを見て、「当たり前」って思った人はいますか。
それとも、「え、他人なの?」って少しざわっとした人は?
それとも、「え、他人なの?」って少しざわっとした人は?
どちらが正解とかじゃない。
ただ、その反応に、あなたが育ってきた環境が静かに映っているとしたら。
家族だから何でも知りたがる、というのも、愛情の一形態だと思う。
でも、それが「勝手にプライバシーを侵害する」ことが当たり前の環境だったとしたら、話は変わってくる。
メールを見る。手紙を読む。日記を開く。
こういったことが日常だった人、どれだけいるんだろう。
一番わかりやすい言葉で言えば、「親から常に監視されていた」という状態。
今でいう、毒親・機能不全家庭で育ったアダルトチルドレンの概念にも繋がる話です。
で、ここからが本題。
「親から監視されていた」「家族との間に境界線がなかった」という人ほど、
誰かとの間に境界線を引くのが、極端に苦手になっていく。
「境界線を引いたら嫌われるかもしれない」という恐怖がある。
あるいは、踏み込まれている状態そのものが、自分の「見慣れた安心」になってしまっている。
だから、傷つけられていても「自分が我慢すれば丸く収まる」って、
無意識に自分を押し殺してしまう。
でも、ちょっと考えてみてほしい。
家族を「他人」として扱えないってことは、
無意識のうちに「自分の家族は普通の別個体じゃない」という思い込みがある、
ということでもある。
家族を、一人の別の人間として、つまり「他人」として見ることができれば、
そこには境界線が引けるはずなんです。
欧米の「赤ちゃんのときから個として扱う」という感覚に、少し近いかもしれない。
「家族なんだから」という見えない鎖に縛られているからこそ、苦しむ。
自分の親や家族に対して境界線を引くことは、冷たいことじゃない。
今ここで生きている「私」という存在を、誰よりも大切に守り抜くための、
最大級の愛だと私は思っています。
あなたは今、誰の土足の侵入を許して、本当の自分を我慢させてしまっていますか。
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