それは共感なのか、責めたいからなのか

 


こんにちは。梶山紗唯です。

先月末で嵐の活動が休止となりましたが、
皆さんは配信や現地参戦でLIVEの熱気を感じましたか。

私は、一切見ていないんです。
熱狂的に追いかけていたわけじゃないからこそ、
背景として当たり前に存在していた嵐が消えることを、受け入れたくない。

それはたぶん、私のエゴなんだけどね。

中丸雄一さんが「時代が終わってしまうのを受け入れられない」と語っていたけれど、
その感覚に近いのかもしれない。


さて、ここで繋がってくるのが、少し前にSNSで話題になった嵐のLIVEにまつわる炎上の話。


詳細は割愛するけれど、あの炎上を見ながら、私はいくつか感じたことがあって。

一つ目は、家族間の「境界線」とパワーバランスの問題。
前もって予定を伝えていたのに、相談なしに独断で日程を決められてしまう。
やむを得ない事情があるとしても、そこにはコミュニケーションの不在と、ある種の支配感が透けて見えた。

そもそも、ああいうことって家族間の話し合いで決めるものじゃないですか。
それが成立していない時点で、関係性のパワーバランスはとっくに崩れているんだと思う。

二つ目は、「世間の常識」を盾にして相手を責めることについて。
「実親の葬儀に実子は出席すべき」という言い分、常識としてはわかる。
でも、それも結局は一つの「個人の設定」なんですよね。

親との関係性が悪いから出席しない。関係性は良くても、自分の意思で出席しない。
どちらも、本来は「あり」のはずで。

大切なのは、世間という他人の物差しに惑わされず、
自分の本音と向き合うことじゃないかな、と思うんです。

三つ目は、「世間からの非難」を盾に相手を攻撃して、従わせようとする心理について。
炎上の根本にあるのは、「自分の主張は間違っていない、と誰かに肯定されたい」という承認欲求だと思う。

私が正しいと言ってほしい。相手が悪いと、みんなに認めてほしい。

言ってしまえば、自分の正解を外側に求め続けている「他人軸」の状態。

かつての私も、そうだった。 親や世間の「こうあるべき」を疑わず、
いい子を演じて、誰かに認めてもらわないと不安で仕方がなかった。
だからこそ、その苦しさは痛いほどわかる。

他人の目が気になるのは、ある意味で当たり前のことだと思う。
人間社会で生きている以上、それは自然なことだから。
でも、他人の物差しを握りしめたまま、終わりのない脳内裁判を続けるのは、
やっぱり息苦しい。

あなたは今、誰の「常識」を握りしめて、本当の自分を置き去りにしていますか。



ここまで読んでくださり、ありがとうございました♡
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