あなたは『見た目』以外で、何を差し出してきましたか

 



久しぶりにYoshiさんの「Dear Friend」を読み返しました。

私がこの本を初めて読んだのは、中学生の頃。 
ちょうど恋空などが流行った、携帯小説ブームの時代ね。 

私は携帯小説よりも書籍派で、Yoshiさんの作品はひと通り読み漁っていたんだけど、
今もなお好きなのはこの作品だけなんです。

たぶん、主人公のリナの家庭環境が、どこか自分と重なっていたから。

リナの両親って、ある意味で対極なんですよね。 
ちょっと体調が悪かったり帰りが遅いと、母は根掘り葉掘り聞いてくる。 
でも父は、ほとんど関心を向けない。

一見「正反対」に見えるこのふたりですが、
心理学的に見ると、実は同じ問題を孕んでいます。

過保護な親は、子どもの「状態」には敏感に反応するけれど、子どもの「内面」には触れない。 

「熱はない?」「誰といたの?」と詮索をしてくる。
それは心配じゃなくて、管理なんですよね。 
無関心な親は言わずもがな、そもそも存在を見ていない。
見てはいるのだけれど、パワーバランス的にというのが正しいかな。

どちらも、「リナという人間そのものを、ちゃんと見ていない」という点では同じ。

こういう環境で育つと、子どもはある感覚を内側に育てていきます。 
「私の本音を出しても、誰にも届かない」という感覚を。

リナは小さい頃から容姿が目立って、自然と人が群がってくる存在だった。
 でもリナ自身は、薄々気づいていたはずなんです。

「この人たちは、私に群がっているだけで、私の友達じゃない」って。

これ、外から見ると「恵まれてる」に映るんですよね。

 でも当事者にとっては、「本当の自分を見せたことがない」という孤独がどんどん深くなっていく体験なんです。

そして人は、「本音を出しても届かない」という経験が積み重なると、本音を出すこと自体をやめていく。
 代わりに、「見えやすい自分」を差し出すことで、関係を成立させるようになる。

リナにとってそれが、容姿だった。 
クラブで絡む仲間も、身体の関係でお金を得ることも、
突き詰めれば「どうせ私は見た目でしか価値がないから」という場所から来ていたんじゃないかと、今の私は読むんです。

自暴自棄、という言葉が適切かはわからないけれど。 
それよりもむしろ——本音を出す場所を、最初から諦めていた、という感じがしています。

でも、リナは変わっていく。
ネタバレになるから詳しくは言えないんだけど、
ひょんなことからリナは変わっていくんです。

最後の章は時系列が未来に飛んでしまうのが少し勿体なくも感じるんだけど、その変容がすごくて。

中学生の時に読んだ時も「人ってこんなに変わるんだ」と思ったけれど、今読み返すと全然違う感動がある。
変わるきっかけって、大きな出来事じゃないことが多いんですよね。 
誰かに「ちゃんと見てもらえた」という小さな体験が、長い時間をかけて固めてきた「どうせ私なんて」を、静かに溶かしていく。

あなたは、どこかでリナに似た何かを抱えていませんか?

見た目じゃなくても、「いい子」であることで居場所を作ってきた人。 
本音を出す前に、相手の顔色を読む癖がついてしまっている人。 
外側の答えに縋ることで、自分の内側を見ないようにしてきた人。

リナの話は、2000年代の携帯小説ブームの産物じゃなくて、今のあなたの話かもしれない。

本音を出すことへの怖さは、ある日突然消えるものじゃないけれど。 
でも確かに、最初の一歩は「怖い」と気づくことから始まるんです。